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![]() 六角鬼丈氏が今年の1月鬼籍に入ってはたと気がついた。彼の「東京武道館」「金光教福岡高宮教会」「立山博物館」「東京芸大美術館」「知る区ロード」「八掛ハウス」「クレバスの家」などは見ているが、「雑創の森学園」と「大雪展望台」の大作はまだ見学していなかった。この2作品を見てから、旅立たれた六角さんへの個人的な思い出を書きたいと思っていた。 ![]() ![]() 2019年9月11日札幌講演で出張し、翌12日に「大雪展望台」見学に挑戦した。晴れ男の僕の威力は十分発揮されて、札幌の朝曇りは上川町に着くと途端に晴れて、「大雪展望台」は堂々たる姿を表した。展望台から大雪山を含む雄大な眺望を背景にして記憶の1枚を撮った。 ![]() ![]() ![]() ![]() また10月19日は京都講演会だったので、昼間「雑創の森学園」をアタック。六角美瑠さんの計らいで内部も全部見学させていただいた。新宮さんの風車が回る下側の六角空間で子供たちがはしゃぎ、活動に満ちた「雑創の森学園」は古さを感じさせなかった。 ![]() ![]() ![]() ![]() 六角さんを含む西荻フォーラムのメンバーにとっては多くの思い出がある。西荻フォーラムとは一見知的なグループに聞こえるが、野武士と呼ばれた1941年生まれのアトリエ派の建築家、すなわち六角鬼丈、松永安光、伊東豊雄、長谷川逸子、早川邦彦など皆中央線沿線に住んでいる建築家を中心とした単なる飲み会。その他年齢は下になるが、磯崎新アトリエの故・藤江秀一、山本理顕、故・石井和紘、淵上などは足軽的存在だった。 ある時新建築時代からよく知っていた松永さんから、「みんな中央線を使っているから中央線飲み会でもやろう、ついては淵上さん幹事役を頼みます」ときた。野武士から足軽への命令だから「ははっ!」と承った。この会では世間話や建築界に対する不平不満の言い放題。酒の上でやるから激しい。暑気払いと忘年会を毎年、西荻窪駅を中心にやっていた。六角さんは西荻窪の南側、僕は北側に住んでいた。 ある時西荻窪駅北側の店で飲み会をやった。六角さんはちょっと遅れて来て、「ああ疲れた!さて飲むか!」と言って、背中の荷物をドサっと投げ出し、畳の上に座り込んだ。しばらく飲んでだべって2次会へ。駅の方向に向かって皆なで歩いていた。僕は六角さんのすぐ後ろを歩いていたその時気がついた。六角さんはなんとナップザックを肩に引っ掛け、ラフな格好で歩いていた。 それは今から30年近く前のことで、当時ナップザックは今ほどポピュラーでなかった。僕は東京芸術大学の先生がこんなラフな格好で大学に行っているという驚きと、彼の後ろ姿の格好良さにいたく刺激され、僕もそれから同じスタイルにして今日まで30年間。六角鬼丈のナップザック・スタイルへの憧憬の念が払拭できず、どこに行くにも同じスタイルで通してきた。六角さんは上背があり肩幅もあり、ナップザックとのバランスがいい。さらに物をたくさん入れないのでカッコよかった。僕のナップザック・スタイルは、実は六角さんのこの時の影響そのもので、その後かなり買い変えているが、六角さんのようにはいかない。僕は六角さんからいい遺産を受け継いだ! 僕が新建築にいた頃、故・近江栄、南洋堂の会長、香山壽夫の3名が建築家テニス大会をやるので、幹事をしてくれないかと頼まれた。そのテニス大会の常連に六角さんがいた。彼は強打が得意で入ると手がつけられないボールが来る。やがて僕が新建築を退社して、その会はなくなったが、僕は青山のテニスクラブに入ってテニスは続けていた。それを知っていた六角さんは、「淵上、たまには俺たちの仲間のテニス会にも来いよ!」と誘いを受けた。 ある土曜日、青山を早めに切り上げて、確か井の頭線沿線のコートに駆けつけた。おもに芸大の仲間で、山本圭介、堀啓二、黒川哲郎、元倉眞琴、六角夫妻、その他。みんなで打ちまくって帰りに行きつけと思われるレストランで飲み会。帰りに六角さんが「淵上、家まで送るよ!」と優しい言葉。奥さんが運転してわが家まで送っていただいた。それは丁度ぼくが吉祥寺に家を建てたばかりの時で、六角さんに見てもらうチャンスと思い、夜遅かったがちょっとあがっていただいた。 六角さんが僕の家について何と言ったかは忘れたが、奥様は笑いながら言った言葉を覚えている。「あなた、淵上さんちはこんなに立派(ではないが)な家を建てていますよ。うちは何年も前から建てる建てると言って、何やっているんですか!」(笑)。六角さんは「あー」とか「うー」とか濁していたようだが、六角邸はそういう状況だったのだとわかった。六角さんの僕を送るという優しさが、裏目になってしまったので悪い気がした。その後六角美瑠さんの設計で新しい自邸「スパイラルの家」が完成している。 ![]() ある時西荻駅周辺で暑気払いをやった時のこと。例によって1次会、2次会、そして終電も終わり3次会になろうとしていたが、西荻界隈はすでに行ったところばかりで、さしたる新鮮な店はなく探しあぐねた結果、 六角さんが「じゃあ俺んちに来いよ!」という。松永安光、伊東豊雄、早川邦彦、山本理顕、藤江秀一、淵上くらいだったか。この時初めて「六角邸」すなわち「クレバスの家」を見た。ところがこの日、奥様が昼間スケートで転んで怪我をされたのを、六角さんは家に電話をした時に知っていたはずなのに、平気でみんなを夜中に呼び、奥様にツマミなどを作らせたのだ!みんなビックリし恐縮!朝の4時半頃まで飲んでお開き。六角さんは何と男気のある気っ風の良い人だと感じた一夜だった。 ![]() 以上は六角さんがまだ芸大の教授の頃の話だが、その後中国に教えに行き、たまに帰国された時に「西荻フォーラム」の集まりを吉祥寺ハモニカ横丁あたりでやったが、その最後は写真のように吉祥寺の小料理屋でやった。その後六角さんに会ったのは、バサラ仲間の石山修武さんとの2人展を銀座で2017年1月にやったオープニングであった。その時初めて体調が悪いのを奥様から伺った。今述べてきたように、六角さんは僕にとってはカッコよく、優しく、男気の良い、三拍子揃ったナイスガイだった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 展示されていた六角さんの作品が多数描き込まれたドローイング この追悼文を書くに当たって、確かどこかにあると思っていた写真が出てきた。それは僕が拙著『ヨーロッパ建築案内―1』を出し、六本木の国際文化会館で出版記念パーティを開催したとき、六角さんに西荻フォーラムを代表して一言述べていただいたときの写真だ。六角さん、いろいろありがとうございました!今使っているナップザックの底に穴が開きそうなので買い換えます。今度こそ六角鬼丈スタイルに限りなく近づいて、颯爽と吉祥寺の街や世界の街を歩いて来ます。 六角さん、さようなら! ![]() 追記:「六角さん、建築は今までに十分やってこられたので、そちらでは建築は少しストップして、テニスをバッチリ鍛えておいてください。僕も今十分鍛えています。いつの日かシングルスをやりましょう!」
by archieditor
| 2019-11-26 07:00
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